今月15日に新百合ヶ丘chit chatで一緒にライブをする
大好きなsister Yo Hardingの日記にこんな記事がありました
是非読んでみてもらいたいです
宋文洲さんという人のコラムにあった記事を紹介していたブログがあったので、
そこから転載させてもらいます。できるだけ沢山の人に読んで欲しいと思いました。
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1996年11月の四川省の寒村。
若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。 赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。 そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、 立ち去ってはまた戻りました。
最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。 「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。
独身のまま1児の父親になった農夫は、 粉ミルクを買うお金もないため、 赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。 病気がちな体は心配の種でしたが、 聡明で近所からとてもかわいがられたのは、 お父さんの救いでした。
女の子は5歳になると、 自ら進んで家事を手伝うようになりました。 洗濯、炊飯、草刈りと、 小さな体を一生懸命に動かして、 お父さんを手伝いました。 ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、 お父さんと2人で家をきり盛りしました。
小学校に入ってからも、 少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。 習った歌をお披露目したり、 学校での出来事を話したりと、 お父さんを楽しませました。
そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。
2005年5月。
ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。 足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、 医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。 目の前が真っ暗になりながら、 お父さんは親戚と友人の元に出向き、 借りられるだけのお金を借りました。
しかし、必要な治療費は30万元。 日本円にして400万円です。
中国よりずっと裕福な日本でも、 庶民にとっては大金になるような治療費を、 中国の農民がどうにかできるはずもありません。 集めたお金は焼け石に水でした。
かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、 日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。
「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。
お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。
「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。
6月18日、 少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。
幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。
娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。
退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。 お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。
新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。
ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。
苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。 そんな時には、目は涙で溢れていました少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。
少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。
化学治療の苦痛に少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。
2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。
化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。
朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。
8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。
少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。
8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。
墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は
「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる。」
と結ばれています。 死後、彼女の鞄から以下の作文を見つけました。
『私の路』
私の路はお友達が歩く小さな路とは違う。
私の路は車が走る大きな路とも違う。
山を登る時、私は私だけの路を歩くのが好き。
山を降りる時、私は小鳥達と一緒に歌う。
もしあなたも私の路を歩いてくれるならば、 私と小鳥達の歌が聞こえるはず。
歌を聞けば路が長くても疲れない。
私は私の路を歩くのが好き。
彼女のお父さんは娘が亡くなってもよく娘の夢をみるそうです。読み書きのできない彼は手放さない本があります。それはなんと「マッチ売りの少女」です。入院中の娘が父さんにその童話を読んでくれました。「寒い寒い大晦日の夜、雪が降り続ける中、・・・」と。
父さんは「可愛そうに・・・」とため息を漏らすと、娘は「うちは大丈夫。たくさんの人が助けてくれるから」と言いました。
たくさんの人々が闘病中の彼女を励まし、回復を祈りました。 しかし、彼女は帰れませんでした。彼女の葬式は小雨が降り注ぐ日に行われましたが、たくさんの「お父さん」と「お母さん」が涙を拭きながら参列しました。
彼女は病院で3ページの遺書を書き残しました。そこに8歳の子供に思えないような、お父さんへの気遣いがありました。そして彼女は、人々からの寄付金を自分と同じ白血病の子供達の治療に使ってほしいと願いました。
実際、そのお金は既に7人の子供達の命を助けました。遺体となった彼女の小さな足に生まれてはじめて靴下が履かれました。白い靴下でした。そのうえに赤い革靴を履かれました。これは彼女が生前によく想像した白雪姫の服装だそうです。
彼女の口元に微笑がありました。